一日の終わり
幼い頃、私には夕暮れがあった。夕暮れの中で遊んだ。夕映えの空が赤さをなくすと、私たちは一人一人夕暮れに別れを告げ、それぞれの家の燈下に手繰り寄せられていった。
学生の頃、私には黄昏があった。暮色が迫ると、私は何ものかに呪文をかけられて、町の中へ彷徨い出た。そして漂泊者のように、詩人のように、失恋者のように、野良犬のように、あるいはまた革命家のように、北国の黄昏の町を歩いた。
新聞記者の頃、私には薄暮があった。毎日のように、インクの匂いのするゲラ刷りを持って新聞社の建物から暮色の街に出ると、裏通りの小さいコーヒー店を目指した。簿暮れは巷を包み、コーヒー店を包み、私を包んだ。そして大陸や南の島の戦いの記事を包んだ。
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現在の私には夕暮れも、黄昏も、薄暮もない。一日の終わりがあるだけである。一日が終わると、一日の終わりの中に座ってブランデーを飲みだす。時に夕映えが縁側を淡く彩ることがあるが、その夕映えも、いつか見た漢代女性ミイラの化粧した唇の色に似て、ひたすら静かである。




